出雲大社やら物部神社などを周って、当時の成り立ちなどを勝手に空想していたのですが・・・
ちょっと逆から空想してみようと思いました。
小学校の社会科で(50年前ですが・・・😅)
弥生時代に 大陸、朝鮮半島から土器・稲作技術・鉄・青銅等の技術が渡来人によって伝わってきた
というようにおそらく習ったと思います。
逆さ地図から見た古代出雲
まず大陸側から日本をみた地図に、弥生時代に関係する国を記入してみました。
ついでに徐福出航も書き込んでみました。

年代は、グーグルAIで出てきた年代をそのまま書き込んでいます。
大陸側から考えるので古事記・日本書紀の記述ではなく、魏志倭人伝・後漢書東夷伝などを根拠にしなければなりません。
しかし、そのようなことが私(59才の普通のオッサン)にできるはずもないので年代だけで勝手に話をすすめます。
年代だけで渡航を推測
最初にひとこと言っておきます。
勝手にやってるだけです。
年代と地理地形をもとに勝手に推測しているだけですので・・・
なんら学術的根拠はありません!
では進めていきます。
年代を見る限り、弥生時代前半にもともと存在していたのは出雲と吉野ヶ里。
そこに弥生時代後半にかけて大陸、朝鮮半島より渡来人が訪問した というような図式になってくるかと想像されます。
距離から考えて、出雲には新羅からの渡来人が、吉野ヶ里には大陸からの渡来人が行ったのではと想像できます。
根拠は距離と海流だけです・・・💧


対馬海流がこのように流れているので 新羅 からは九州よりも出雲や京都北部、若狭湾のあたりが行きやすかったように思います。
大陸(徐福の2回目の出航地あたり)からだと九州が一番近いですし、関門海峡を抜けることもできたかと思います。
徐福は秦の時代の人でしたが、そのあとの漢の後漢の光武帝もAD57年に 有名な漢委奴国王の金印を日本に送っています。
その金印があった場所は九州です。
古代出雲に関するあくまで勝手な考察です
弥生時代、日本には出雲、吉野ヶ里も含め複数の 国というか勢力があったものと思われます。
朝鮮半島側から見て近くに大きな出雲という国が、大陸側から見て吉野ヶ里というおおきな国がありました。
それぞれ 出雲は新羅、吉野ヶ里を含む九州勢は秦・漢という後ろ盾を擁することになりました。
どちらも、南また東へ勢力を拡大していきました。
当然どちらも後ろ盾があるので強力です。
倭国大乱は、魏志倭人伝によると2世紀後半(弥生時代後期)に起こったとされる、倭国(現在の日本)における大規模な争乱です。
魏志倭人伝による邪馬台国は2~3世紀頃と言われてますので、倭国大乱の結果 邪馬台国の力が強大になったのかと思います。
あとは想像の世界
これが九州勢だったのか、もとから大和にあった国なのか、はたまた結びついたのか、もともとの大和国は出雲と結びつきが強かったのか、それとも出雲から来たのか などとあとは空想するしかありません。
“吉野ケ里遺跡” 行ってみたいです!
お付き合いいただきありがとうございました。
※参考:吉野ヶ里歴史公園公式サイト